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ヲタクの愛は何で示せるか

ジャニヲタ界隈では賑わった(と思っている)この話題。

muramuramurako.hatenablog.com

スクービー版でやってみようかと思ったりしたのだけどもう現場がありすぎて断念した。というかダンスホール1日で越したっちゅーねん2万5千円。そもそも東京遠征費にも足りてないし。交通宿泊費は高い。

 

ヲタクの愛は金で示せるか、というのは実は結構引っかかっているテーマだったりする。
所謂ひとつのコミュ力に欠ける引きこもり系ヲタクであるわたしにとって、これは重大なのだ。ジャニヲタやってるときは本当に良かった。これを覆す論争ってほとんどなかった(と思っている)から。
わたしの担当は堂本光一さんである。次の誕生日(元日)で37歳になるんだった、はず。シュウさんリーダーとジョーさんの間だね!わたしのすきなひとは概ねあの年代。で、光一担は蔑称として光一婆と呼ばれてるくらい、年齢層が高い。そりゃあもう高い。スクービーの現場なんて目じゃない。そんな界隈なのでそりゃあもう、票数は愛です!と言わんばかりに諭吉が舞う現場であった。誤解なきように言っておくと、光一担は自担に盲目(なひとが多い)ので事務所にはお金をばんばん払うけど大金出してそこらの良席狙いの小娘にお金を払ったりはしない。今でもそうであってほしいと思っている。というか婆って言われるくらいの資金力があってこその帝劇2ヶ月梅芸1ヶ月博多座1ヶ月計4ヶ月S席1万2千円(帝劇価格)全席即日ソールドアウトなんです!よ!!10年以上それを続けてるんですよこっちは!!
盲目光一担をしているときは帝劇価格の写真(B5サイズ1枚500円)を全買いしていたし(公演が続くにつれて第○弾、と20枚ずつ追加されていき最終的には7弾くらいまで出るので最終的には150枚くらい、うち光一さんは座長なので8割は写っていて観劇の度に追加購入するシステム)、舞台雑誌(1冊1000円くらい)は舞台前・初日レポ・千秋楽後と3ヶ月くらいは3紙くらい買っていたし、そもそも雑誌は音楽雑誌からテレビ雑誌から写ってるのは片っ端から全部買っていた。ひと月雑誌だけで諭吉は超えて払ってたとおもう。紙媒体がすきだから。
なぜ同じ顔をして写っている雑誌を何冊も買うのか(光一さんは写真がお好きではないので基本的に表情に変化がない、ポーズにもない)、1枚500円(帝劇価格)だか150円(ジャニショ価格)だかする写真を何百枚も買ったりするのか(買ったら無印ファイルに綴るだけで特に見返しもしない)というのは明らかに愚問な世界だった。
「ファンにできることはお金を遣うこと」
今でもわたしがヲタクとして生きる上でのポリシーはここで習った。光一さんの載った号の売り上げが良かったら次も載せてくれるかもしれない。写真の売り上げが良かったら次はオフショットがもう少し増えるかもしれない。CDだってアルバムだってDVDだって初回通常全部買う。特典が違うからというのもあるけど、一番は数字という指標が出るからだ。数字が出ないとどれだけ望んでも次はない。そういう世界で生きているひとのファンになったのだ。12歳で事務所に入って東京に引っ越してきて学校よりも仕事が楽しくて青春時代を仕事に費やしてきたから学校の思い出なんかあらへん、とからから笑う美しいひとを消費している罪滅ぼしの気持ちも、すこし、ある。光一さんが大好きな仕事をずっと続けられるように、わたしができることは消費者であり続けること。今でも正しいと思っている。この価値観が人それぞれなのはわかっているし、そこに優劣はないと思う。ただわたしはこう思うだけで。

 

大分前置きが長くなった。
そうやってジャニヲタ街道を進んできたわたしが、次にすきになったのはバンドマンだった。大阪城ホールのスタンド最前サブステ前で光一さんが真正面で結構な時間歌っていた、という経験がある。手を伸ばせば届くその距離でわたしは何もできず(触れるなんておこがましいことできるわけない相手は偶像でありわたしの神様なのだから)ただ茫然とその美しく整った顔を息を殺して眺めていた。物理的に光一さんに一番近かったのはその瞬間なのだけど、バンドマン界隈は全く状況が違う。全く違う。まずもって光一さんがジャニーズ王道街道驀進の生粋の王子であることもあるけれど(言いすぎの感じもある)、バンドマンには触れられるし(最前可能な整理番号が来てかつシュウさんの目に留まれば)、握手もできるし(地方公演の物販に出てきてくれれば、主にリーダー)、会話もできる(同左)。好きな気持ちが昂じると碌なことにならないのは大石昌良氏の物販で経験済みなので(だいすきです、と言うのが精いっぱいだった、しかも泣きながら言った)物販にメンバーがいるとうれしいけど心の底から緊張する。聞きたいことも言いたいこともたくさんあるけど直接は無理。ほんと無理。それができるコミュ力持ってればわたしは世の中に順応して生きてるわ偶像崇拝やってないわ、とおもう。


それで、愛のはなし。
ヲタクの愛はお金で示せる、というのがわたしの自論で、そうやって生きてきた。
それに疑念が生じたのは2015年9月9日水曜日(MOBY風)。フラカン武道館応援のUstreamの、ほんの些細な一言だった。
それはラジオのパーソナリティさんとか、業界にいるひとに限った話だったのかもしれない。収録終わったあとで「実はファンだったんです!」って言われると「先に言ってよー!」みたいになる、とか、そういう話の中だった。録音していないし2ヶ月近くも前のことだから意図を違えて聞いたのかもしれない。それでもあのとき、圭介さんは言った。

このとき同席していたスクービーの面々がどういう返しをしたのか、それともしなかったのか、前述のラジオパーソナリティの話になったのか、わたしは全く覚えていない。

少なくともシュウさんはこうは言っていたようだ。

フラカンにも圭介さんにも、当然のことながら全く非はない。武道館応援のユーストなのに野音の話ばかりしてくれて感謝しかない気持ちだった。それは良い。

おお、そうか、一番はちがうのか。
これはこまったな、と思った。正直なところ。言い方はわるいけど、ファンに優劣がつくなあと思ったから。好きですと偶像を目の前にして伝えられる、わたしから見るとリア充的な要素を持ち合わせている人が、現実が辛くて逃避した先でも大切なものとして取り扱われるのを、また見ていないといけないのか、それはご免だな、と思った。前にも書いたけど目の前の偶像に素直に気持ちが伝えられるような人間だったらもう少し楽しく生きられている。それができないからだいすき偶像にお金を払うことで愛を伝えているのだ。少なくともわたしは。

一度引っかかった言葉はずっと消えずに残るだろう。わたしはスクービーがすきだ。だいすきだ。それでも野音がどれだけ楽しく、わたしの人生の中の1ページに美しく刻まれているか、本人たちに直接伝えることはできないと思う。そういう生き物なのだ。

だから、買う。パンフレットは保存用にもう1冊ほしいし売り切れだったサイズのパーカーもほしいし(Sサイズは大きかった)、荷物増えるから買わなかったニットキャップやらタイミングを逃して変えてない白トートやらを、買う。それがわたしが示せる愛だからだ。


ヲタクの数だけ愛のかたちはちがう。だから許してほしい。お金を払うことも、ひとつの愛だって。